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どんがめ会の皆さんへ
 六月上旬、安達純一君から、どんがめ会の連絡があり、よろこんで参加することを約束しました。  ところが、その後まもなく(六月十八日)脳卒中になり、救急車で日赤病院に入院しました。
 幸い、病院に行くのが早く、出血の量が少なかったので、手術の必要もなく病状も徐々に快方に向かい六月三十日、機能病院に転院し、現在リハビリ中です。体力も大分回復し、杖なしで歩行できるようになりました。
 さて、どんがめ会の皆さんが、熊大附中に入学したのは、昭和三十一年でしたね。今年は丁度それから五十年、つまりお互いのはじめての出会いから五十周年目ということですが、小生も附中に来たのは、昭和三十一年皆さんと一緒でした。
 当時の一人一人の童顔を思い浮かべると、本当に今昔の感深いものがあります。
 また、大槻幹雄先生との出会いも奇遇でした。先生は少年時代を下益城郡中山村(現 美里町)ですごされ、(お父さんが中山小学校の校長先生)、この中山小学校は、小生の母校でもあります。
 そういうこともあって幹雄先生とは兄弟のようなつき合いでした。
 昭和三十一年の夏休みに、二人で旅行し、高千穂の神州館に宿泊した時のことは、まだ はっきり記憶に残っています。
 飯干君が何故熊大附中に受験したのか、理由は知りませんが裕士君のお父さん(敬太郎さん)の話しでは、飯干君が熊大附中に合格したときは、学校あげて大よろこびで、合格発表の日、高千穂小学校の職員室の黒板一杯に
 ”飯干裕士君 熊大附中合格!おめでとう!!”
と板書してあったそうです。
 大槻先生と二人で神州館に宿泊したときは敬太郎さんはとても元気で、三人で国見岳に雲海を見に行き、山頂でカッポ酒をくみ交わしたこと、また、ソーメン流しで、よく冷えたソーメンを腹一杯食べたこと、高千穂峡を土地の歌の名人と同じ舟で”刈り干し切りうた”や土地の民謡などの名調子を聞きながら、遊覧したこと、など、心からの歓待を受けたことを、昨日のことのように鮮明に覚えています。
 尚、神州館には、十年位前、尚絅幼稚園の先生達(小生の園長時代の職員)と、一泊旅行をしたことがあります。その時は、敬太郎さんは、ご他界になっていました。裕士君は、出張か何かで不在でしたが、裕士君のお母さんや、奥さんから、心からのご歓待を受けたこともあります。
 その思い出多い神州館で、五十年の出会いを暖めるどんがめ会が開催されること誠に素晴らしいことだと思います。
 大槻先生や飯干君がいたらどんなによろこんでもらえたかと思います。いや、きっと天国からこの会をじっと見ているにちがいありません。
 参加できないのが、とても残念で仕方がありませんが、どんがめ会の皆さんの、今後の益々のご健康とご多幸を心から祈念し、また、
 大槻幹雄先生、飯干敬太郎さん、裕士君、それから既に鬼籍に入った、クラスメートの人達のご冥福をお祈りしてペンをおきます。
  平成十八年八月一日
病室にて榊田新次郎
どんがめ会一同様
  
Sakakida sensei  
「出会いから50年 どんがめ会」の栞に目を通されている榊田新次郎先生
2006/08/02/ 機能病院病室で撮影。
 
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